彼岸とは彼の岸、悟りの岸とも申します。

 私達の住んでいる迷いの此の岸から、悟りの彼の岸へ向かうための精進努力する月を彼岸月と申します。

 お釈迦様は私達にどの様な努力をし、どの様に此の月を過ごしなさいと申されているのでしょう。

 お釈迦様の教えは、皆様の日常の生活の中に有ると申されています。今までの日常生活を続けながら、悟りの岸に誰もが進めると申されています。いったいどういう事なのでしょう。

 ではここで、皆様が毎日体験されている出会いについて考えてみましょう。

 出会いを当たり前、偶然とみれば、何も生まれません。皆様が出会っておられる、家族、知人、仕事仲間、この方たちとの出会いは、どなたがご用意して下さっているのでしょう。ご自身から働きかけて出会わせて頂いた方は、何人おられますか?

 職場へ行かせて頂いて出会えた方、紹介して頂いて出会えた方、産まれて下さって出会えた方。命を頂いて出会いが始まります。

 自分という命の原点が地球誕生、宇宙誕生まで遡り、果てしない命の引き継ぎの何億回という繰り返しの果てに、自分に届く。どの様な命も引き継ぎでしか頂けません。突然何処からか現れる命は何処にもありません。

 お一人お一人の今生きている命、全ての生命はこの様に無限の時間の存在です。

 毎日の生活の視点を変えるだけで、現実が、真実が見え、自分は今何をしなければならないかが自然に、当たり前に分かってきます。

 お釈迦様はこの事を常に忘れず、自分の今の生活が全て意味有るものであり、それを知ることで人生は生き生きと活き始めると申されています。

 人生、最後まで意味深く、崇高な時間とさせて頂かなければならないと思います。ご自身の命一つに向き合うだけでも、日常忘れてしまっている命の尊さが見えてきます。自分との出会いは、自分という人間を見つめ始める時になるのでしょうか。しかし、この自分という存在も、自分で意識し自分で決めて、今が在るわけでもないように思えます。

 身の回りで起きていること、全て当たり前では無く、有ること難しの存在であることに気付けば、そこから感謝の泉が湧き始めます。

 自分の存在の尊さに深く気付かせて頂けた人は、他の方々の存在も同じく、深く尊い存在である事に気付かせて頂けるものです。そして、生きとし生けるものの尊さに気付けた人は、周りの方々を大切にし、物を大切にし、尊ぶ心を宿して頂けるものです。

 この様に人の心は、ものの見方一つで感謝いっぱいの心にも、不満に満ち溢れた心にもなってしまうものです。

 不満を周りのせいにする方がおられますが、お釈迦様は、不満に満ち溢れた心は、相手が悪いのでは無く、自分自身の無知から来ることを知りなさいと申されています。

 毎日の生活の見方、感じ方を知らなかったから、今日までの人生を無駄にしてきただけです。今日から見方を変えるだけで、誰でも明るい人生にと変えることが出来ます。

 そして、自分の無知に気付いたなら、ご先祖に向かい深く頭を垂れ、毎日お経を頂くだけで、仏智を頂き、自分を見付け、感謝いっぱいの心で過ごせる生き方に向かわせて頂けるものです。

 彼岸への出発です。

 秋の彼岸月

 今日から実行してみましょう。実行しないで得られる、心の安穏はあり得ません。何故なら、人は体験するための肉体をもってしまっているからです。

合掌